【義経観】
義経関連の本を、一通り読んでみた。
感想を言うならば「人の見方とは十人十色。当てにはならないものだ」ということ。
四冊の本の中で、やはり際立っていたのは宮尾登美子の「義経」だった。
女性の観点で、戦乱の世に翻弄された女性たちに向けられた視線が柔和だ。
淡々と史実をひもときながら、分かりやすく論じていく。
義経の母常磐、恋人静、様々な女性のそれぞれの背景、思いを、まるで言い当てているようで、引き込まれる。
そこら辺の歴史家等の文章とは、当たり前だが質が違う。
文学者ならではの、豊かな表現で平清盛を、源頼朝らを描きだしている。
宮尾文学の真骨頂を見る思い。
手塚治虫の「火の鳥」では、義経は血も涙もない、戦好きの野蛮な人間として描かれる。
義経の「負の部分」を大きくクローズアップしている。
義経率いる軍をゲリラ部隊のように位置付けた。
奥州へと逃げる義経を、「勝つためにも、生きるにも、手段は選ばない」
そんな義経を描いた。
これも手塚治虫にしか描けないものだと思う。
ただ、この二人に共通するものは「結末は読み手に委ねる」ということ。
私は、どちらも義経像を的確に捉えていると思う。
父の顔も知らず、幼くして鞍馬山に預けられた。
父の仇である清盛の愛妾となった母を許せぬ思いもあったろう。
義経の華麗な女性遍歴も、母から引き離された寂しさからきたものだろう。
戦となれば、神がかりな力を発揮した。
他の軍師とは勝利への一念が違うのだから、当たり前だ。
義経にとって、戦場こそが、何もかも忘れて没頭できる場だったのだから。
だから、義経は自分が総大将となっても、先陣を切りたかった。
譲りたくなかった。
最前線で平家を討ち破れば、安穏が待っていると信じていた。
純粋に信じていたはずだ。
自分の居場所を探し、探し求めても、手からすり抜けていく安住の地。
それが義経に科せられた残酷な宿命だった。
戦の天才であり、敵をも味方にさせる魅力を持っていたのにも関わらず。
奥州藤原の長兄に裏切られず、奥州の覇者として、頼朝と戦ったら―――歴史は全く違うものになっていた。
天魔は頼朝に味方した。
また、頼朝も天魔に見放され、無残な屍をさらした。
天の上から、頼朝の最期を見つめた義経は、決して喜んではいなかっただろう。
「源氏の棟梁たる御大将が、不様な姿なり」と涙したのではないか。
私は、そんな気持ちで義経を読んだ。
疾風雷電、電光石火、こんな言葉が似合うのは歴史上、義経しかいないだろう。
義経と弁慶、佐藤兄弟、伊勢三郎ら郎党らが、今もなお歴史に燦然と輝きを放っている。
信長も信玄も、謙信でさえ、戦いにおいては義経には適わない。