【思うこと】
やはり、私はおかしいのか――――。
そんなことをふと思った今日。
二月の終わりごろ、私は幹部指導を受けた。
その幹部に会えと言われた。会って指導を受けろと言われた。
その幹部を家に招いて指導を受けろと。
玄関先では失礼だから、仏間に上げなければならないよ、とも。
私はこんなことを思ったら、おかしく思われるのかもしれないが、
なぜそんなに一人の幹部を皆が推すのか、それがわからない。
信心がない、その一言で終わってしまうのも結構。
しかし―――Y氏もSさんも、Oさんも、その幹部には絶対の信頼を寄せている。
「息子さんの話を聞いたかい?ハンパじゃねえよ」
Y氏は満面の笑みで、そう言った。
私もそう思う。壮絶だと思う。
自分の一人息子が脳腫瘍。絶望的な状況にあっても朗らかに、そんな姿は露ほども見せない。
あれぞ、師弟の鑑よと敬愛されるのもわかる。
でも、私の状況と、その幹部の方の状況を一概に比べられるだろうか。
同じ土俵の上に乗っけて、語れるだろうか。
あの日も声を詰まらせながら、自分の体験を語ってくれた。
私も涙を流した。
しかし、正直に言わせて頂ければ、違和感があった。
「あなたの辛さも壮絶だけれど、私も見えない病に苦しめられている。
医者にも見放された。一見、福々しく健康そうな面構えをしているように見えるかも知れない。
でもね。私の心も身体も、重体なんだよ。ベッドで横になりたいけれど、なれないんだよ。
わかるかい?見えぬ病に、これでもかと苦しめられる宿業が。あなたにわかるかい?
明日の保障もないんだよ。命はある。それでも、その命が悲鳴を上げている声が聞こえないかい?
この頚の痛みが、わかるかい?――――この悔しさが、わからないかい。
眼に見えない病ほど、辛いものはないんだよ。この辛さを甘えと言い切るかい?」
悔しかった。今日も悔しかったが――――。
あの時も悔しかった。
その話を軽くすると「本気で怒ってくれたんだよ」と慰められた。
私はやはりおかしいのか。怒られるようなことを口走ったのだろうか。
心の疾患を持っている人間に、あまり激烈な指導はご法度なのではないか。
それでも、やはり私の信心がずれているのだろう。そうなのだろう。
しかし、私には、その「ズレ」そのものが、わからない。
やはり病気なのだろう。
悲しいことだ。何と悲しいことだろうか。
この悲しさも、悔しさも、自分が過去世で望んだことなのだろう。
欲張りだったのだろうな、私は。