【鬱々と夜明けを待つ】
とうとう朝になってしまった。
昼間寝込んだ分、夜が眠れなくなった。
しかし、口が重い。
無口で無表情。
生きながらにして亡霊の様だ。
カメラを手に取るのも億劫。
ただ、頭を垂れて浅い呼吸をしている。
「心ってのは難しくて、自分の思うようにいってしまう。だから、心を師としなければな」
正論。反論の余地もない。
思いやっての言葉をかけてくれ、僅かながら、嬉しい様な気持ちもするが、その心が病んでいる時は、地獄に堕ちろともとれる言葉。
言葉や交渉に敏感になっている私にとって、些細な言葉や表情も容せなくなっている。
心が半死半生の時に、当たり前の言葉を浴びせられると、口も言葉も心も閉ざしてしまう。
朝だ。寝よう。
心寂しき朝の涼風よ。
【思うこと】
やはり、私はおかしいのか――――。
そんなことをふと思った今日。
二月の終わりごろ、私は幹部指導を受けた。
その幹部に会えと言われた。会って指導を受けろと言われた。
その幹部を家に招いて指導を受けろと。
玄関先では失礼だから、仏間に上げなければならないよ、とも。
私はこんなことを思ったら、おかしく思われるのかもしれないが、
なぜそんなに一人の幹部を皆が推すのか、それがわからない。
信心がない、その一言で終わってしまうのも結構。
しかし―――Y氏もSさんも、Oさんも、その幹部には絶対の信頼を寄せている。
「息子さんの話を聞いたかい?ハンパじゃねえよ」
Y氏は満面の笑みで、そう言った。
私もそう思う。壮絶だと思う。
自分の一人息子が脳腫瘍。絶望的な状況にあっても朗らかに、そんな姿は露ほども見せない。
あれぞ、師弟の鑑よと敬愛されるのもわかる。
でも、私の状況と、その幹部の方の状況を一概に比べられるだろうか。
同じ土俵の上に乗っけて、語れるだろうか。
あの日も声を詰まらせながら、自分の体験を語ってくれた。
私も涙を流した。
しかし、正直に言わせて頂ければ、違和感があった。
「あなたの辛さも壮絶だけれど、私も見えない病に苦しめられている。
医者にも見放された。一見、福々しく健康そうな面構えをしているように見えるかも知れない。
でもね。私の心も身体も、重体なんだよ。ベッドで横になりたいけれど、なれないんだよ。
わかるかい?見えぬ病に、これでもかと苦しめられる宿業が。あなたにわかるかい?
明日の保障もないんだよ。命はある。それでも、その命が悲鳴を上げている声が聞こえないかい?
この頚の痛みが、わかるかい?――――この悔しさが、わからないかい。
眼に見えない病ほど、辛いものはないんだよ。この辛さを甘えと言い切るかい?」
悔しかった。今日も悔しかったが――――。
あの時も悔しかった。
その話を軽くすると「本気で怒ってくれたんだよ」と慰められた。
私はやはりおかしいのか。怒られるようなことを口走ったのだろうか。
心の疾患を持っている人間に、あまり激烈な指導はご法度なのではないか。
それでも、やはり私の信心がずれているのだろう。そうなのだろう。
しかし、私には、その「ズレ」そのものが、わからない。
やはり病気なのだろう。
悲しいことだ。何と悲しいことだろうか。
この悲しさも、悔しさも、自分が過去世で望んだことなのだろう。
欲張りだったのだろうな、私は。
【壬生義士伝】
今日は体調が悪かった。
連日のローン会社からの督促の電話に辟易している。
いや、一種の恐怖を感じる。
目をつぶって、これからの為さねばならぬ事を考える。
苦痛だ。
しかし、こうなったのは私自身の責任。
対処法を探す事が先決。
「壬生義士伝」の主人公は、誠実な男が貧苦に喘ぐ家族を守るため、南部会津藩を脱藩し、京に上り、新撰組へと入隊する。
家族を貧困から救うため、数えきれないほどの人を斬った。
手柄を挙げれば、褒美が出る。
男は自らは金を持たず、褒美が出れば、そのまま家族に仕送りした。
そんな彼を「みっともない」「侍にあるまじき姿」「守銭奴」と皆、軽蔑する。
しかし、彼は必死だった。
命懸けで稼いだ金を仕送りして、家族がひもじい思いをさせない事――それだけが、彼の幸福を感じる時だった。
新撰組である前に、彼は夫であり、父親であり、人間だった。
新撰組で最強と謳われながら、彼は家族の幸せを一番に考える、心優しき男だった。
彼もまた、戦争の犠牲者だったのだ。
鳥羽の戦いで無数の傷を負い、瀕死の姿で、元の南部会津藩へと戻る。
わが妻に会いたい、わが子らに会いたい、まだ見ぬ赤子をこの手に抱いてあげたい。
その一心で彼は、脱藩した国下へと帰る。
しかし、時流が変わっていた。
脱藩の罪も重い。
新撰組は賊となっていた。
彼の命懸けの懇願は受け容れられるはずもなく、切腹を命じられる―――。
家族の幸せを願い、ただひたすらに生きた。
今の世では、我が子を殺す親もいる。
家庭を顧みる事もなく、妻子を苦しめる夫もいる。
彼の生き方は、ごくごく普通の、人間として当たり前の生き方だったのではないか。
優しく、どこまでも優しい男の悲しい物語。
涙なくしては読めなかった。
こんな人生ではいけない。
優しく誠実な人が死んではいけない。
金で泣く人生ではいけない。
金に溺れてもいけない。
何度も云う。
金に泣いているような人生ではいけないのだ。
生活苦は悲劇を生む。
お金がなくても、幸せなんて戯言だ。
今だからこそ、裕福にならなければいけない。
心の王者たるもの、金が無くて泣いているなどという悲劇があってはならない。
【辛抱の履歴書――水戸泉眞幸】
私はくまおばちゃんの影響を受けて育ったので、大の相撲好きだ。
今は特定の力士のファンがいるというわけではないが、相撲はとかく大好きだ。
平成4年7月名古屋場所。
ケガと病気に苦しみながら、我慢に我慢を重ね、相撲界に入門してから14年目にして、栄光を掴んだ。
その青年は水戸泉という力士だ。
早くに父を亡くし、母の手一つで育った。
母と幼い弟の三人家族。
母は夜となく、昼となく働いた。働いて、働いて、子らを育てた。
ある日、突然、母が「甲府に行こう」と子供たちを電車に乗せる。
その日の母は優しく、日頃の貧しさでは考えられないほど、
子らが、ねだるまま駅弁やジュースなどを買って与えた。
母は富士の樹海で心中を思い詰めていた。
しかし、無邪気にはしゃぐ子供達を見て、どうしても死ねなかった。
どうして子を殺せようか――。
母は子供たちが大人になった頃、ぽつりと呟き、口をつぐんでしまった。
長男の眞幸少年は、そんな母の背中を見て育った。
「おれが親孝行して、母ちゃんを幸せにするんだ」
中学時代、柔道とレスリングに明け暮れた眞幸は、思いがけないところで、相撲界からスカウトされる。
初の外人関取、元関脇・高見山のサイン会に訪れた際、一際大きな体躯をもった眞幸に声をかけてきたのだ。
眞幸は相撲など全く興味もなかったし、相撲界は恐ろしい世界だと恐怖さえ覚えていた。
紆余曲折あって、眞幸は決断する。
「母ちゃんの親孝行のために、おれば相撲取りになる」
眞幸は15歳の春、高砂部屋に入門する。
ケガと病気のデパートと揶揄される悪戦苦闘の戦いの火蓋が落とされた。
稽古に稽古を重ね、人の何倍もの稽古をした。
しかし、本場所になると運命は眞幸に、これでもかと試練を与える。
病気、そして力士生命を脅かすような大怪我。
負けそうになる心。
ふと「相撲がとれないなら、いっそのこと死んでしまおうか」と、ふと脳裏をよぎる。
そのたびに思うのは、母のこと。
茨城に置いてきた母のこと。
そして、周りを見れば、全く歩けない人が懸命にリハビリに励んでいる。
老いも若きも、それぞれが必死になって生きている。
生きようとしている。
「もう一度、おれは相撲をとる」
眞幸はすでに四股名を「水戸泉」と名乗っていた。
大関候補と言われながら、あと一歩のところで、ケガに泣く。
その繰り返しの土俵人生だった。
平成4年7月名古屋場所。
水戸泉にチャンスが訪れる。
怒涛の勢いで勝っていく。
そして小錦を始め、水戸泉を「援護射撃」してくれた。
同じ辛苦を味わった仲間。
「水戸泉が優勝パレードの時は、おれが旗手をやる」
母との誓い通り、周りの応援に応えてみせた。
「母ちゃん、やったよ」
母は立派に成長した眞幸を見て、目頭を押さえていた。
涙がとめどなく溢れた。
弟・梅の里も十両昇進を決めた。兄弟揃って、関取になった。
母は声を上げて歓喜の涙を流した。
かつては一家心中をしようと、わが子を殺して自分も死ぬと思った母。
「日本一の親孝行」とは、このことだ。
しかし、それから僅かな数年後、母は立派な力士となった息子達を見届けたように、天に召された。
「おれは相撲取り。親孝行には勝って勝って勝ちまくるしかない」
水戸泉は生来、気は優しくて力持ち――それを地でいく、真直ぐな男だ。
だから、大勝ちもすれば大負けもする。
番付が危なくなっても、汚い手は絶対に使わない。
真っ向勝負。
この本のサブタイトルには次のように書かれている。
「人生、笑いの陰に涙あり、辛抱の陰に志あり」
あえて、私が言葉を重ねる必要はなし。
【タゴールの詩】
「おお、詩人よ、夕べが迫って」
「おお、詩人よ、夕べが迫って、お前の髪は灰色に変わってきた
お前はお前の孤独な瞑想の中で、来世のたよりをきこうとしてるのか?」
「もはや夕暮だ」と詩人は言った。「私は耳をすましているが、それは村から誰かが訪ねてきてはしないかと思うからだ。
もはや遅くはあるけれど。
私は見張っているのだ―――もしさまよっている二つの若い胸が出あって、双方の熱い瞳が彼らの沈黙を打破って
代わりに語ってくれる音楽を求めていはしないかと。
もし私が生の岸辺に坐って死と彼岸のことを瞑想しているなら、誰がいったい彼らの情熱的な歌を織りあげてやるのか。
宵の明星が消えてゆく
屍を焼く薪の山も徐々にひっそりとした湖畔で消え落ちる
ジャカルの叫びが疲れはてた月光の中の荒廃した屋敷の庭から聞こえてくる
もし誰か旅人が、家を離れてここへ夜を見つめに来て、頭を垂れて闇の呟きに
耳をすます時、もし私が扉を閉してこの世の絆から自分をとき放そうとしていたなら、
いったい誰が彼の耳に生の秘密をささやいてやれるのか?
私の髪の毛が灰色に変わりつつあるなどは取るに足らぬ些事
私はつねにこの村の一番若い者と同じだけ若く、また一番年をとった者と同じだけ年とっている
ある者は甘やかで単純な微笑をもち、ある者は眼の中にずる賢いまばたきを秘めている
ある者は昼の光の中に迸りでる涙をもつが、他の者の涙は闇の中に隠されている
彼らはすべて私を必要とするのだ。そこで私は死後の生涯を思い煩っている暇がない
私は彼らのそれぞれと同じ年令なのだ。私の髪が灰色になろうとそれが何だろう。
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【タゴール詩集より抜粋】
【新・平家物語】
一読しただけでは、物語の輪郭しか捉える事が出来ないので、
もう一度、図書館より借りてくる。
「天地人(上・下)」も息抜きの為に、再び借りる。
今日は風呂に入る前に、白髪染めをする。
明日は母の病院。
背骨が痛い。
早めに薬を飲む。
新・平家物語の若き日の平清盛が、母を憎み、母の我儘に堪え忍ぶ父親を歯痒く思い、
風邪をひいたと寝込み、我儘三昧の母の為に、父から親戚に借金を頼まれに行かされる。
若き日の清盛は貧乏と家庭不和に泣く青春だった。
刀を差していなければ、どこの浮浪児かと見られるほど、酷い身なりで、親戚に頭を下げて借金をし、悔しさと惨めさに堪え切れず、涙を流す清盛。
そんな青春二十歳の清盛を、心に描き、涙する思いだった。
【緊張状態が解けない】
家の納戸を喫煙所にするべく、黙々と片付ける。
やっと半分の要らない物を処分する。
天井まで山と積み上げられていたゴミや雑誌等々、気が遠退くようだったが、ここまでくれば、六合目位にたどり着いたか。
まだまだこれからも片付け作業が続くかと思うと、鬱々とした気持ちになる。
そうでなくとも、今日は都議選やら、これからやらなくてはならない手を打たなければならない。
本当の戦いを挑む時は、言い様もなく緊張状態に入るもの。
未知の領域に足を踏み出すとは、過酷なものよ―――。
煩悩即菩提。
生死即涅槃。
言葉で言うは易く、命で識ることは難しい。
朗らかに朗らかに。
心で血を流しても、臆面も出さず―――将の将たれ、と己を鼓舞する。